2008年4月より下村健一の「眼のツケドコロ」の放送時間が6:10~に変更になりました。

異業種勉強会で「報道よ、思い上がるな!」

放送日:2007/9/29

先日、ある異業種交流勉強会が、「報道よ、思い上がるな!」というタイトルで開かれた。勉強会には、色々な職業で中堅を担っている40歳代前後の人達およそ20人が集まり、テレビ報道に対して日頃から抱いている疑問を、参加者が口々に指摘し、私がそれを一手に受けて回答した。今朝は、そのエッセンスをお伝えする。

■ “赤ちゃんポスト”という呼称への違和感

普段はいろいろなテーマで開かれている勉強会だが、今回、このテーマで開かれることになった発端は、幹事である松田一 氏から私に届いたメールだった。私がTBS『サタデーずばッと』でリポートした熊本県慈恵病院のいわゆる“赤ちゃんポスト”について、松田氏がそのネーミングに噛み付いてきたのだ。

松田: “赤ちゃんポスト”って言われた瞬間に、とってもカチンと来たんです。あの慈恵病院というところは、最初から最後まで、自分達では“赤ちゃんポスト”とは言ってないんですね。“こうのとりのゆりかご”という名前を付けてました。恐らくポスト的なイメージを持って欲しくないから、“こうのとりのゆりかご”という名前を付けたはずなのに、なぜ報道がわざわざ“赤ちゃんポスト”なんて、何か郵便物を放り込むみたいな、ポンと投げ入れて捨ててしまうようなイメージを湧かせるようなことを言うんだろう。そんなこと言わないで欲しいと。

下村: 僕も、この“赤ちゃんポスト”に関しては、最初凄く抵抗がありました。「ポストじゃないだろ、これは」と思ったんですけど、やっぱり、蓋を開けてそこに赤ちゃんを入れていくっていうものを、それに代わるほどスコーンと一発で表すネーミングがどうしても思いつかなかったんですね。
 さっき、僕が
(この勉強会の)最初にこの話を振った時の、参加者の皆さんの反応を思い出していただきたいんです。「“赤ちゃんポスト”ってあったでしょ?」と言った瞬間に、皆さん「ああ、ああ」ってなる。《相手に対して、一発で分かる》っていうこと。これが、テレビでは物凄く大事なんです。ざらっとして違和感は伴うけれども、心にひっかかってもう離れない“赤ちゃんポスト”という言葉、あの強烈なネーミングがもし無かったら、この話を皆がパッと共有するのは結構難しいんですよ。

実際、マスコミがこの話を採り上げ始めるよりずっと前に、そういうものの先行事例が沢山あるドイツに、当事者である慈恵病院が視察に行った時の記録ビデオのタイトルが、既に“赤ちゃんポスト”だった。
松田氏の言う事も尤もだが、全国の人にまず《聞く耳を持ってもらう》には、違和感があっても印象的な言葉が必要なのだ。皆がギョッとして聞く耳を持った後で、きちんと説明して分かってもらうという手法だ。

■説明不足も説明過多も、許されない

しかし松田氏は、なおも納得せず、後から説明したのでは挽回できない《第一印象の影響》を指摘した。

松田:  1回イメージを持ってしまったら、皆、賛成・反対っていう方向に立ち始めるんじゃないかなっていうのが怖かったんです。皆が本当の本質を考えて賛成・反対してるならいいけども、どうもテレビを見ていると、完全に今は、報道というか番組の言い回しとか流れで、一般の人達が皆左右されているような気がするので、何か報道が誘導してるように見えて仕方なかったんです。最初から「(これは)“こうのとりのゆりかご”で、赤ちゃんを救うためのもの」って前置きをしてたら、もっともっと賛成者の方が増えたんじゃないかな、と思ったんです。
 「実はこの“赤ちゃんポスト”というのは、我々報道のメディアが作った名前ですが」と前置きしてから、“赤ちゃんポスト”と言う語を使う番組も、後から出始めました。そういう立場で言わないと、と思いました。

実は、『サタデーずばッと』でも、そういう前置きを初めの頃は付けていたが、このテーマを繰り返し採り上げる中で、前置きしなくなった。その経緯を私が説明すると、松田氏は、「これは前の放送の時に説明したから、もう(省略しても)いいだろう」という我々報道側の判断が《独りよがり》だと批判する。しかし、「まだ知らない人がいるだろう」と、毎回くどくど説明することもまた、《逆の独りよがり》になる可能性があるのだ。

下村: 新聞だったら、読者は読み飛ばせるんですよ。その説明の部分が必要なければ、飛ばして読めるんだけど、テレビは絶対それが出来ない。視聴者はおとなしく、出てくる順番に甘んじて受け入れるしかないんです。それがテレビの凄く重大な制約で、分かっている所を《飛ばせない》。逆に、分かんなかった所を《もう1回読み返すことも出来ない》。もうその順に一方通行ですから。そうすると、テレビ局員っていうのは新聞記者以上に、《一発で分からせ》、なおかつ《「もうそれは知ってるよ」と思わせない》サジ加減っていうのを工夫しなきゃいけないんですね。

テレビで報道する都度、「この言葉の意味は…」と前置きすると、もう知っている大部分の視聴者を待たせてしまうだけでなく、他の大切なニュースを伝える時間をも奪うことになってしまう。
しかも、1つの言葉から受ける印象というのは、人それぞれだ。“赤ちゃんポスト”という言葉が、必ずしも悪いイメージだけを持つとも限らない。この異業種勉強会でも、「私はポストという言葉に、誰かに届いて欲しいというプラスのニュアンスを感じた」という発言があった。実際、“赤ちゃんポスト”の扉をあけると、病院からお母さんへの手紙も入っている。ここまで考えると、単語の選択というのは、本当に難しい。

■考えるのが面倒になった人々の、コメント願望

“赤ちゃんポスト”の話から発展して、「そもそもテレビは、視聴者にある特定の印象を与えることに対して無神経になっていないか?」という話題になった。

松田: ニュースというのは私が小学校くらいの頃までは、起こった事柄をそのまま流すというのがニュースだったはずなんです。報道というイメージですね。ところが今は、そこにコメンテーターやらキャスターやらという人が、尾ひれを付けちゃうんですね。ただ単に「誰々さんがこういう事をして捕まりました」で終わらせておけば、確かに見ている国民は「いやまだ、もしかしたら推定無罪かもしれない」と思うんですが、そこに「いやぁ、こんなことをした酷い人ですねぇ」というコメントを1つ付けることによって、もう(有罪が)確定しちゃうんです。完全に見ている国民を誘導してしまっているようなイメージをどうしても受けちゃうんです。誘導されることに抵抗がなくなってる人種の、特に若い人達は、そのまま綺麗に受け入れてしまう。

男性A: よく報道とかで、「オピニオン・リーダー」って言葉を使うと思うんですけども、例えばね、朝のワイドショー見てる主婦層などは、小倉智昭さんとか、みのもんたさんが言った事が、正論になっちゃうわけですよ。『朝まで生テレビ』も、声の大きい人の言った事が正論になっちゃうんです。声が小さくて気の弱い人の言った事は、なかなか番組で採り上げられない。

こういう不満をぶつけてくれる人は、冷静にそういうコメントを受け止められているわけだから、松田氏の言う「誘導」をされる心配はあまり無い。だが、久米宏氏が登場した『ニュースステーション』の辺りから、視聴者の中に「ニュースキャスターはコメントしてくれるもんだ」という空気が生まれてきて、「(このキャスターは)考え方を示してくれるから好き」という、人気の原動力のような感じになってきた。
逆に、私のリポートでもよくやるのだが、そういうコメントを何も言わずに、「こういう見方もあるし、こういう見方もあります。後はあなたが考えて下さい。考える材料だけお示しします」などとやると、「どっちなんだ? 答えをちゃんと示してくれ」という文句が来たりする。

■「避難民=みかん箱」の鋳型

物事をなるべく単純化し、善か悪かに分けて、分かりやすく報道してくれる方がいいとする《テレビの単純化》について話が及ぶと、2000年の火山噴火で避難した三宅島出身の女性から、次のような実例報告が飛び出した。

女性B: 今、三宅島って報道すると、テレビに出てくるのは、住めなくなっている高濃度地区を映す。実際はあそこは一部で、もう皆の生活は始まってるのに、報道はあそこを流す。何かもう最初から取材をする前に、取材に行く前に、見せる絵が決まってるような感じがして。
 全島の(島民が)、この東京に(避難して)出てくるっていう時に、ある局が「ずっと(うちの両親を)追ってドキュメンタリーを作りたい」と言い始めて、くっついてたんです。ところが、割と最初の頃に、打ち切りになりました。どうしてかっていうと、うちの親が(避難して)来るときに、大きなレースのテーブルセンターと写真を持って来たんですね。それを避難先に置いたら、「これでは避難民の絵が出来ない。みかん箱にして欲しい」と。(笑) だから、「これは違うので、ちょっと違う家庭を探す」って言われたって。

よく「絵にならない」と言うが、このディレクターの取材の仕方は、穴埋め式のテストのように、基本文はもう出来上がっていて空欄だけ埋めるという、結論先行の形になっている。先に想定したものしか撮れないんだったら、そんなものはニュースじゃないんだが。

■光市弁護団批判一辺倒への疑問

この他にも、光市の母子殺害事件で、被告弁護団のやり方が批判されている報道の仕方について、「批判ばかりでいいのか?」という問題提起があった。

男性C: あの光市の、例の親子殺しの裁判。あれって、報道は弁護団批判一色なんだけど、でも実はあの事件って、弁護団の言ってる事、一理も二理もあるんだよ。ところが報道というのは、「弁護団はけしからん。裁判引き延ばしのためにやってるんじゃないか」っていう言い方だけしてて。何故あそこで、高裁差し戻しになったか。高裁差し戻しになった理由が、本当はちゃんとあるんだよ。そこの所が抜け落ちて、「けしからんですね、弁護士さん達は」っていうコメントだけで終わってしまうっていうのが、ほとんどのニュースだった気がするわけ。

確かにこの裁判に関する世間の感情としては、「あの被告は勘弁ならん」という憤りも自然だ。だが、1つの圧倒的な世論の流れが出来ている時こそ、報道は、それだけを伝えていてはいけない。それは、「大きな声だけ伝えるな」という、先述の男性Aの指摘の通りだ。

メディアに携わる人間は、こういう批評を聞く機会がもっと必要だ。ただ我々が視聴者側の意見を拝聴するだけでなく、「それはこういう事なんです」と、我々が説明することによって、視聴者側も気付く事があるに違いない。お互いの理解を進めるためにも、機会あるごとに、こういう場に出て行きたい。