2008年4月より下村健一の「眼のツケドコロ」の放送時間が6:10~に変更になりました。

統一教会に入った母を、鬱の息子が撮った映画

放送日:2007/8/18

また1本、ユニークな映画が生まれたのでご紹介しよう。鬱病気味で医者通いをしている青年が、統一教会に入信してしまった母親との対話を撮った、『belief』(ビリーフ)という作品だ。
統一教会は、人の不安感を煽って高い値段で壺やハンコを売りつけて社会問題になったり、派手な合同結婚式で耳目を集めたりと、かつて随分メディアにも登場した。最近はあまり報道されないが、その活動は続いている。

■「僕の名前は、土居哲真。」

《ビリーフ》とは、信仰とか信心という意味だが、より深い含意は、映画を観て読み取って欲しい。
まずは、イントロの場面。台所で家事をしているお母さんの映像に、息子のつぶやくようなナレーションがかぶさる。

――――【映画『belief』より】――――――――――――――――――――――――――――――

ナレーション: 僕の名前は、土居哲真。この人は、僕の母。
 これは、僕と、僕の母と、僕の家族の物語だ。ある朝、母が宗教に入っていることを知る。僕は、母と対話することしか出来なかった。

土居: いつから行き始めたんやろ?

母: 6月。

土居: いつの6月?

母: 去年の…。
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映画はいきなり、監督自身が名乗るところから始まる。もうその瞬間から、台所に立つ母親の映像は、それを見つめている息子の視線なのだと分かり、映画を観る者も、そこに同化してゆく。
この土居哲真監督は、企画・取材・撮影・編集、更には映画館への配給まで、殆ど全てを1人でやって、この『belief』という作品を発信した。その意味で、これは市民メディアの作品と言ってもいいだろう。監督自身も、そう位置づけている。

■《身の回り》に徹することで得られる《社会性》

この映画は、昨日まで3週間、東京・下北沢の映画館で連日上映されていた。その中の1日、上映後の監督とゲストとのトークショーに私も招かれ、「メディアとしての私」というタイトルで、スクリーンの前で監督と対話してきた。

土居: 市民メディアの弱点としてですね、個人レベルの情報発信になると、やっぱりどうしても、僕の映画もそうなんですけど身の回りの事にどうしても目が行ってしまうと。
 そこで社会的な視線というのをどれだけ持てるかというのが勝負になってくると思うんですね。《社会性を持つためにはどうすればいいか》というのは、下村さん、どうお考えですか?

下村: 市民メディアで制作している人達から、よくその悩みは聞きます。僕の答えはもう明快で、「そんな、社会性を得るためにどうするかなんて、一切考えなくていい」と。土居さんの作品はまだね、なんとか社会性をという気遣いで、弁護士さんとか色んな方、出てきます。だけど、たぶん土居さんとしては、あれは一種の相談なわけでしょ?

土居: そうですね。何をしたかったと言うと、母親がどういう気持ちだったか、というのを知りたかったんですよね。

下村: そうですよね。

土居: ですから、信者の方にも話を聞くし、マインドコントロールの研究者の方にも聞くし、カウンセラーの方にも聞く。やっぱり、(母が)統一教会に入って行く過程っていうのがどういう心理状態なのかっていう、なんでそこに行かなければならなかったのかってのを知りたかったんですね。

下村: 大手メディアが、ここに出てきた弁護士やカウンセラーにインタビューすると、やっぱり彼らは《インタビューに対する答え》しかしないんですけど、同じ事を聞いてても、土居さんに語っている彼らって、《相談に乗ってる》んですよね。

土居: そうですねぇ。

下村: だから、なんか違うわけ、情報の出方・伝わり方が。画面から出てくる時の訴求力が。これは、《社会性》なんて考えずに徹底的に《身の回り》に徹した成果なんですよ。

土居: あー、なるほど。

下村: 「徹底的に、自分の身の回りに起きた事に降りて行け」と。徹底的に降りて行くと、最後にスポンと底が抜けて、突然《社会性》を獲得するんですよ。

大手メディアの若手記者が企画モノの制作で相談をしてきた時には、私は、「もっと視野を拡げて、テーマに社会性を持たせろ」と、真逆のアドバイスをする。それが既存メディア流だからだ。市民メディアがその真似をして、同じ作り方をするメディアが2つになっても、意味が無い。

■「俺の問題?」と問うインタビュアー

さて再び映画『belief』の1シーンをご紹介する。この映画の骨格である、母子の対話から。

――――【映画『belief』より】―――――――――――――――――――――――――――――― 

母: 今現在が良くなればいいって、お母さん、一番思ってたんよ。家族が一番良くなればいいし。お母さんも、哲ちゃんが苦しんでいるんだったら、何とかしなきゃいけないと思って、段々その…。哲ちゃんが、よう鬱病になるけども、お母さんも、あれがちょっと心配じゃった。

土居: 俺の事が、やっぱり問題だったんじゃろうか。
 いや、俺はね、俺がこんなんじゃけえ、こういう事が起こったんかなと思うんよ。仕事もせずに、鬱病やし、迷惑かけとるじゃろ。

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確かにこれは、「映画撮影者による取材相手へのインタビュー」ではなく、「息子による母との対話」だ。私がTBSの仕事で、このお母さんに「なぜ統一教会に入ったんですか」と質問しても、こんなインタビューは絶対に撮れない。そういう《市民メディアの強み》についても、土居監督はトークショーで私に尋ねた。

土居: じゃ、市民メディア自体の持ってる強みと言いますか、マスメディアには無い市民メディアの強みって言うか、なんか特徴みたいなものってありますか?

下村: あります。具体的なことで言えば、僕もTBSで昔、統一教会の問題は相当取材しました。同じ材料が集まったところで、TBS=マスメディアが伝えるとどうなるか? で、土居さん=市民メディアが伝えるとどうなるか? この比較でちょっと考えてみましょう。
 やっぱり、TBSが伝えるっていうのは、伝え手が第三者である僕だから、結局、相手の人にインタビューしても、それは、その人から出た言葉が一度僕を通ってから出てくんですよね。一度ここでフィルターがあるんですよ、どうしても。だけど土居さんの場合は、「お母ちゃんがこうなっちゃったの、俺のせいかな」みたいな問いかけがあったりして、お母さんも、落ち込んでる土居さんと電話で話す時のあの話し方って、あれはもう要するに取材者に対して語ってるんじゃないじゃないですか。

土居: そうですね。完全に弱気になってる息子に対しての言葉ですね。

下村: そう。もう、当事者が直に発信してるわけです。これ以上、新鮮な情報源は無いんです。これがね、市民メディアの凄い力。

土居: 当事者自身が、自分の思いを発信できるってことですね。

下村: そうそう。「私」っていう主語で語れちゃう。これがもう決定的な違いですよね。

■《攻めるvs攻められる》の関係からの脱却

上記のトークの中に出て来た、「落ち込んでいる土居さんとお母さんとの電話」というのは、監督が一番自分をさらけ出しているシーンだ。画面はイメージカットで、土居さんが1人で受話器を握っている姿とか、医者からもらっている鬱病関係の薬の山などを映しながら、音声だけ本当の電話の録音が流れる。

―――【映画『belief』より】――――――――――――――――――――――――――――――

母: どうした? 調子悪い?

土居: うーん、調子悪いなぁ。

母: 身体が重たいの、やっぱりそう?

土居: うん。いや、それは鬱のせいだって言うけどね、先生は。

母: うーん、鬱のせいね。薬はちゃんと飲みなさいね、向こうの先生にもらった薬はね。きちっとね。

土居: うーん。

母: 身体を削る思いをして毎日生きてるんじゃけえ、哲ちゃん、それは報われるよねぇ。大丈夫よ、哲ちゃん。たまには、そう考えんさんな。
 大丈夫よ、哲ちゃん。広島へ帰っておいでや。

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カルトに入信してしまった弱い母というイメージは、この場面には全く無い。むしろ、ここで弱さをさらけ出しているのは、監督の方だ。既存メディアでは、カメラやマイクを相手に向けるというのは、どうしても一種の《攻撃》になってしまう。しかし、この『belief』という作品では、どちらかが一方的に攻める・攻められるではない、不思議な関係が成立している。

■窓口は、今後10年で出来てゆく

上映後のトークで更に監督は、こうした市民メディア作品は、作ったはいいが世間に見てもらうルートが無い、という問題を私に問い掛けて来た。

土居: 僕のこの映画は、幸運にして映画館という所でやらしていただけました。ただ、普通に市民メディアで映像を撮ることはできても、それを人に届けるまでがなかなか難しいと思うんですね。そういう《窓口》みたいなものが、今まだ無いと思うんですけど、これに関してはどう思いますか?

下村: これは自然に出来てゆくと思います、僕は。例えば、自然現象の1つですけど、偶然だけど先月僕、自分のホームページを完全にリニューアルして、その端っこ(トップページの右上)に動画のコーナーを作って、そこで、お勧め市民メディア番組の紹介を始めました。
 テレビの映画番組で、映画解説者が最初と最後に「これは、こうでこうで…」って喋るでしょ? ああいうの、始めたんですよ。

土居: [観客に向かって]実際見ていただくとわかると思いますけど、画用紙、スケッチブックみたいなものを使って、やってらっしゃったりとかねぇ。

下村: 制作費ゼロでやるのがモットーですから。

土居: 非常に安上がりの。

下村: そうそう。だって、誰でも出来なきゃ駄目なんだもん。

土居: そうなんですね。

下村: 大手メディアみたいに、すごい金かけちゃ駄目なんだもん。そしたら、それだけで、出来る人が限られちゃうから。

土居: そうですね。

下村: 別に下村健一のホームページだけじゃなくて、これからそういうの増えてきます、注目されればされるほど。だから、そういう所が入口として機能するようになっていって、その中で、しょうもない作品を紹介してるポータルサイトは消えてゆく。
 そういうスクラップ&ビルドが起こって、自然淘汰が起こって、10年ぐらいで、かなり見やすくなると思いますよ、市民メディアは。

土居: あー、なるほど。

■映像制作体験者だけが知る“衝撃の事実”

土居監督と私のトークは、最後に、監督自身が初めて映画作りをした時に味わった大ショックの体験談をきっかけに盛り上がった。

土居: やっぱり、僕も初めて映画撮ったのがもう11年前なんですけども、その時に非常にショックでですね、「あ、なんか、この世界を撮りたいのに、カメラにはこれだけしか映らないんだ」。

下村: そう!

土居: で、編集すると、「なんか、思ってたことと全然違うメッセージになっちゃう。」「あ、でも、これ入れ替えたら、また違うメッセージになっちゃう。」 作り方によって実は、発せられるメッセージってのは全然違うんですね、もう撮り方と編集の仕方。

下村: そうなんですよ。だから今、意識の進んだ先生達はポケットマネーでカメラ買って、自分の小学校なんかで6つの班に6台のビデオカメラを与えてね、かつて僕達が模造紙で壁新聞を作ったようなノリで、班別にビデオ作品を作らせたりしてます。すると、同じテーマで6班がニュースを作っても、絶対6通りの違ったニュースになるんです。それを発表会で皆お互いに見て、子供達は気付くんですよ。「あ、そうか。こうやって自分も、いっぱい撮った中で、色んな言葉捨ててるなぁ」と。「もうその段階でチョイスしてるな、俺」とか。「相手に伝えやすくなるために、こういうアングルの工夫しちゃってるなぁ」とか。

土居: そうですね。

下村: ね? 「別にテレビ局は、視聴率目当ての悪意だけでやらせとか(捏造とか)やってんじゃないんだ。《表現》をすると、自動的にそこに、そういう《作為》は入るんだ」と。絶対に入るんだということを、身をもって知るんです。これがすごく重要な、メディアリテラシー教育。それを一度でも経験したらその日から、子供たちのテレビニュースの見方は、確実に変わります。

土居: そうですね、もう。

下村: これをやった方がいいと思う、僕は。

土居: あー、なるほど。

下村: と言うか、始まってます、今。

勿論、「あるある大事典」の事件のように、本当にわざと捏造してしまう悪意のケースもあるが、それは特殊な事例で、一般論として、どんなに良心的に作っても、映像表現には制作者の《意図》は必ず入る。それを知ってしまった“衝撃の体験者”として、土居監督も大いに頷いていた。

この映画、昨日で東京での連続上映が終わり、あとは今の所、今月末に新潟で2日間上映される予定が決まってるだけだ。発表の場が無い、という土居監督の悩みは、まだ全然解決していない。自主上映方式も最近流行ってきているし、制作委員会のホームページがあるので、興味を持たれた方は、ぜひメールでお問い合わせを。